釈宗演の逸話 その2

 

blog_2018-09-15-10.27.jpg釈宗演の逸話、もう少しご紹介します。

「予言者の訪問」

 みずからをメシア仏陀と称し、釈迦よりもキリストよりも偉大な予言者だと吹聴し、自己礼拝を宗義とし、いたるところに押しかけて寄付を乞うては宣伝に努めていた変わり者がいた。
 ある時、この変人が東慶寺に宗演を訪れて盛んに老師を相手に一席ぶった。
「貴僧は有力な後継者がいるからまことに結構だ。自分は十五年間というもの、日夜に悪戦苦闘して道の宣伝に努力しているが、いまだ世に容れられず、その日の生活にさえ窮するありさまである。願わくば、この予言者のために、有力者に紹介の労を取っていただきたい」
 これを聞いた宗演は、座を正して、
「予言者をもって任ずる者が、人に紹介を頼むようでどうするか。紹介とは俗事のための手段だ。紹介状は書けん。また、おまえさんは十五年間、伝道に従事して来たといわれるが、いやしくも新しい宗教を伝えようとするならば、十五年はおろか、三十年、四十年の短日月ではとても効果を収めることはできん。予言者に似つかわしくないではないか」
と説いたが、この男の目的が多少の喜捨にあることを見抜いた宗演は、
「そこに供えてある布施は、最近もらったものだ。中味は百円か、千円か、それとも二円か三円か分からんが、ともかくそれを全部やろう」
と仏前からお布施を下げて来て、封をしたまま与えた。さすがの予言者も、一言もなくそのまま辞し去った。

 


 

さすがに宗演老師、ですね。

さて、自坊のことで恐縮ですが、自坊の本堂に掛っている寺号額(上の写真)は釈宗演老師のご揮毫によるものです。自坊は妙心寺派ではありますが、おそらく、世代住職の誰かが釈宗演老師のおられる円覚僧堂に掛搭したのであろうと思っていました。

もちろん明治期に参じたことは間違いのないことですから、察するに、私から3代前の住職であろうと思われます。私の師匠が言うには、自坊の土蔵の中に、その3代前の住職の名前が記してある英和辞典やキリスト教の聖書などがあるというのです。明治時代の田舎寺の禅寺住職がなぜこんなものを持っていたのか不思議だと……。

そうすると、ふと線が繋がりました。アメリカを始め海外巡錫をした釈宗演老師に参じていたなら、そういったものを手にすることになる機会があったに違いないと。

円覚僧堂の在錫名簿に自坊の3代前の住職の名前が残っているか調べていただかなくてはと思っているところです。ひょっとすると京都に来られた時にでも、自坊を訪ねてこられたこともあったかもしれません。

ここまで書いた後に、仕事の関係で釈宗演老師の語録『楞伽漫録』を紐解いて走り読みしておりましたら、大正四年と大正七年に、自坊の近くのお寺に巡錫されたときに作られた偈頌を合計4作見つけました。さて、この時でしょうか。