NHKの朝の連ドラ「半分、青い。」が終わりましたね(実はこれを書いているのは最終週のクライマックスをむかえるあたりで最終話を観ていませんが)。
どの連ドラも観てきたわけではないのですが、なんとなく今回はビデオに撮って夜観ることにしていました。登場人物のりつ君ファンや、すずめファンも多いでしょう。マー君が……という方もおられるかもしれませんね。
私はどちらかというと、タイトルにひかれてという感じです。
半分青い。ドラマ全体を通してのテーマなんでしょうね。誰もが成功したり失敗したりを繰り返しの人生。自分の生涯と当てはめながら観ていた方も少なくないのではないでしょうか。
禅語に出てきそうだなと思ったので、データベースで「半青」を検索してみたところ、出てきました、出てきました。
『虚堂録』なんかにも出てきます「半青半黄」をはじめ、「半青半白」「半青半赤」という風に……。いずれも半分は青く、半分は黄色だったり、白かったり、赤かったり、いろんな色の対照として使われていますね。「半青半黄」は『禅学大辞典』(大修館)にもでていまして、「十分に熟しないこと。未熟」とあります。出典は『碧巌録』をひいてあります。『無文全集』第三巻(碧巌録Ⅲ)から引用してみましょう。
第七十二則「百丈問雲巌―百丈、雲巌に問う―」
本則は、
挙す。百丈、又た雲巌に問う、咽喉脣吻を併却して、作麼生か道わん〔蝦范ォ窟裏より出で来たる。什麼とか道わん〕。巌云く、和尚有りや也た未だしや〔皮に粘じ骨に著く。諡俣D帯水。前に村に搆らず、後に店に迭らず〕。丈云く、我が児孫を喪せん〔灼然として此の答え得て半前落後なる有り〕。
というものですが、そのあとの評唱に、
雲巌、百丈に在って、二十年侍者と作る。後、道吾と同じく薬山に至る。山問うて云く、子、百丈の会下に在って、箇の什麼の事をか為す。巌云く、生死を透脱す。山云く、還って透脱するや也た未だしや。巌云く、渠れに生死無し。山云く、二十年百丈に在って、習気も未だ除かず。巌、辞し去って南泉に見ゆ。後、復た薬山に帰って、方に契悟す。看よ他の古人、二十年参究するに、猶お自ら半青半黄、皮に粘じ骨に著きて、穎脱すること能わず。是は則ち也た是。只だ是れ前に村に搆らず、後に店に迭らず。
とあり、ここに「半青半黄」の言葉が見えますね。無文老師の提唱によると、
「二十年百丈に在って、習気も未だ除かず――何だ、百丈のところに二十年もおってからに、まだ悟り臭いものが取れんのじゃナ。そんなザマで何になるか」
と叱られた。雲巌、また迷いに迷って、南泉和尚のところに出掛け、その後に再び薬山に戻って来て、今度は本当の悟りを開いたということである。なかなか、苦労をしておられるのである。大器晩成である。百丈のところに二十年もおっても、半青半黄、柿の熟さんのと同じだ。皮からも離れられなければ、骨からも離れられず、頭から離れられず、カラーッとした境界にはなれなかったのである。まんざら修行ができていなかったとは言わんが、前に村に搆らず、後に店に迭らず、中途半端な修行であったと言うべきであろう。
まさしく、20年も百丈禅師のところにいるのに、おまえは未熟であると喝破されていますね。禅僧たるもの、しっかり修行して、青いも黄色いも、そんな色などどうでもいいほどの熟した境界にならねばいけないのでしょうが、私のような凡夫には「半分青い」が丁度いいのでしょう。