釈宗演自画賛 達磨図(個人像)
釈宗演禅師の展覧会に向けて、展示作品の釈文をする際に禅師の著作などをあつめた『釈宗演全集』全十巻(昭和5年・平凡社)を紐解いていたら、第十巻の最後の方に禅師の逸話がまとめてあるのを知りました。弊所の『禅門逸話選』には載っていない逸話をご紹介します。
※原文は旧仮名遣い旧字体ですが、読みやすいように改めました。
飯田の魔の池
明治四十一年四月禅師が信州飯田の直指会に臨まれた時のことである。同地の禅刹百丈山大雄寺に程遠からぬ所に、女夫池(めうといけ)という古池があるが、年々歳々其の古池へ投身する者が多いので、徳志家がなんとかして不祥事のないようにと、種々方策を施した。或る者は其の池畔に法華供養塔を建てようと献策するし、或る者は多くの鯉を放養し、そして営利的に鯉釣りを始め、以て人の出入りを多からしめて投身者を防ごうとしたけれども、魔の池ともいうべきか、やはり投身者が絶えなかった。すると宗演禅師は、此の事を知ってか、知らずにか、大雄寺の沙弥と居士等を連れて、此の古池へ来て一竿の風月を楽しまれたが、其の巧みな釣り方には、営業主をして驚かしめた。禅師は帰られるときに、其の釣り獲た鯉は総て古池へ放たれた、営業主はもとより他の者も、それが禅師だということは、更に知らなかったが、誰れ言うともなく、其の人が宗演禅師であったことが分かり、特に有志者が懇情して、六字の名号の執筆を願い、池畔に建碑した。すると爾来絶えて不祥事が起こらなかったので、今なお同地の人は、一般に其の高徳を称えている。
また字を書きに来た
江州乾徳寺の住職台嶺和尚の主唱斡旋で、湖東禅道会が組織され、年に一回ずつ宗演禅師の來錫を乞うことになった。ところが同会の維持が困難なので、台嶺和尚が事情を打ち明けると、禅師は即座に、
「よろしい、では墨蹟を五十枚書きましょう」
と、労苦も厭わずに揮毫されて、それを湖東禅道会の為に寄附された。そして來錫ごとに、
「また字を書きに来ました」
といつも五十枚ずつ揮毫された。禅師が台嶺和尚の詩に和韻されたのに、左の七絶がある。暫伍山猿野鶴群 荷衣松食講禅文
箇中消息君知否 去就自由一片雲
怪物の出現
横浜の故綱島小太郎氏は、深き仏道の信仰者で、従って宗演禅師の帰依者の一人であった。小太郎氏の末期の遺言にも、
「家事に就いて事起こる時は、老師のご指示を仰げ」
との意味が認められてあった程だから、其の帰依の深かったことが分かる。禅師が嘗て此の綱島家の三階の大広間で大達磨を、揮毫されたが、其の大達磨は眼玉は千両だと、其の当時評判された。綱島家では主人小太郎氏の永眠初七日の夜、供養の為、薄暗い客間へ、此の大達磨の幅を掛けて置いた。すると参拝者たる客人達が、此の大樽間の幅の前を通って、霊前へ往かねばならなかったが、どうしたことか眼光炯々として人を射るが如き大入道の怪物が動き出したので、人々は、
「あら化け物が」
と驚きの叫びを発して、一同顔色を変えた。そして女子供は勝手元の方へ逃げ出す騒ぎであった。ところが其の化け物は、禅師筆の大達磨で、其の眼玉が怖ろしかった為で、後で大笑いをした。