木登りの上手な猿も滑りそうな木だから「さるすべり」と呼ばれる百日紅。
また百日間ほど花を紅の花を咲かせることから、この「百日紅」と書かれるのであろう。
猿が上るほど大きな木ではないが、自坊にも5本ほどの紅白とりまぜた百日紅があり、今年もお盆が近づいた今頃から、きれいに花をさかせはじめた。
百日紅について、弊所の季刊誌『禅文化』85号(昭和52年夏発行)に、歌人の松本仁さんが書かれた「わが花物語 百日紅」という文章があるので、以下に全文を転載しておこう。
-------------------
ふりみふらずみの五月雨が、葉かげにまるまると梅の実をみのらすと、まもなく大空は、炎帝のひとりぶたいとなる。春夏秋冬の四期のうち、もっともこの地球の上に近づいた日輪は、澄みきった大気の中に、はばかるところなくその光の矢を放射して、いよいよ男性的な夏だ。
黄金もとろけ流し、草かげの石さえただらかすほどの炎暑の中を、技数の極めて多い枝々に、皺の多い円形の花々をひらいて、ゆう然として高く炎帝によびかける喬木がある。
花色は、白雲の峯よりも白いのもあれば、虹よりも淡く柔らかいものもある。咲いては散り、散っては咲いて、うら盆会を中心として花期のながいことは、百日を越える。これがわが百日紅なのだ。
「百日紅」花期のながさを名実ともにあらわし、しかも「百日」という数詞の下に、「紅」という少女の口紅にも似た愛らしい色どりをもってきている。
ああ、炎帝のひとりぶたいの盛夏の日にひらいては大空の天蓋となり、地にこぼれては地上をきよめる散華ともなる。百日紅の花こそ、まことに花の中の禅であり仙ではないか。
百日紅のまたの名は「さるすべり」だ。いかに木のぼり達者な猿公でさえ、この木肌はつるりとして、すべりやすいというわけだ。この木には樹皮が見えない。つるりと肌ざわりよく虚飾をまとわぬ禅僧仙者の趣がある。
時折この無皮樹公も、ひそやかに、その一張羅をぬぎかえることがある。寺院人声なく、声のみわずかに木にあるとき、彼は少しづつ皮をぬぎかえる――この仙寂禅境の中に彼の超然ぶりは、大自然の詩そのものであるのだ。
百日紅はまた「怕痒樹(はようじゅ)」ともいう。人がこの樹肌をなでると、これに答えるように大きな幹までがうごく。これは、木がかゆがっているとも、木が笑っているとも言われている。
また「紫薇(しび)」の別名は、原産地である中国の唐時代、その「中書省」の門前にこの「紫薇」が植えられていたので開元元年(713)役所の名を「紫薇省」と改めたということだ。百日紅と人との親しい間がらが、これによってもうかがわれるのであろう。 さて、わがタイム・トラベルは六十回も大きく逆転して、日光山下の少年の日にかえる。少年の家は毎年棚経宿をつとめていたので盂蘭盆会には、菩提寺の僧達はひとりづつ小僧を従えて、正午になると他家の棚経をすまして少年の家に集まってくる。
仏壇は大きくひらかれている。精霊棚には大きなぼたもち、そうめん、わかめをはじめとして、甘さのぷんぷん匂ふ新千瓢、茄子、胡瓜、それに真赤な紅をふくんだほうづきなどで荘厳されている。盂蘭盆会の読経がはじまる。色とりどりの法衣をまとった僧達の読経の声が、一すじとなり合誦となって、あるいは高く、あるいは低く仏間に溢れて光りとなる――。
この坐の末席に合唱する少年の目がしらも、次第にあつくなってくる。このわが家の年に一度の法悦境の中に、うら庭の方から何か、かすかなるものおと――これこそ、炎天下に天蓋となっていたさるすべりの花が、二花三花つれ立って、地上に散花した音なのであった。草木国土みな仏心――みほとけの声なのであった。
-------------------