禅の思想と生活、および文化・美術などに興味をお持ちの方のための禅の教養誌として、禅文化研究所発足以前の昭和30年6月1日に第1号が創刊されて以来、現在まで253号を数える季刊『禅文化』。
なかでも古い号はバックナンバーも揃わない状態で、読者の中にはコピーサービスを受けてでも、それらの貴重な記事を求める方もおられました。この度、10号程度を1冊の目安として1号~100号までのバックナンバーをオンデマンド印刷にて復刻することにいたしました。このたび、まずは3冊を同時発売!
創刊当時の印刷は活版で、現在のような精度の高い印刷技術もなかったため、特に写真画像などが粗くなって見えにくい状態になってしまうのは否めませんが、鬼籍に入られてしまった高足方の貴重な記事を読むことができる価値ある資料であることにかわりはありません。
鈴木大拙博士はその記念すべき創刊号の巻頭に以下のような一文を寄せておられますので、原文ママでご紹介いたします。
禅文化の創刊をきゝて
米国にて 鈴木大拙
禅研究雑誌刊行の事、何れも関係の御方々の全力傾注を希つて止みませぬ。これだけの一事件でなくて、世界的意味を持つて居る。狭い範囲で、考へないで、視野の飽くまで広からんことを要する。自分の考では、基教だけでは世界の人間は助からぬ。どうしても仏教が加はらぬといけない。その先鋒をなすものは禅だと自分は信ずる。他日何か一文を草したいと目論見て居ます。その節はよろしく御発表を乞う。
今学校で一寸話して居ることは、漢文或は支那語の特質と禅思想との密接な関係についてです。これは特に連語と云うべき同じ字を重ねたものを使用することです。英語などでは、概念性の文字が多いので、客観的にははつきり規定せられる場合も多いが、文字の主観性とも云うべきものが、よく現はれにくい。浄裸々赤洒々などという言葉、孔子の燕居するや、申々如たり、夭々如たりといふ形容。老子の、人は察々昭々だが、自分は沌々たり悶々たりなどというところ。何れも概念的には言ひ尽くし能はぬものが、その内面的気分の溢れるまでに盛られて居るところは、漢文でなくてはと指向せられるのである。これを十分に説明するには、支那語の言語学的性格などから始めなくてはならぬ。
今少し閑ができると、何かまとめて見たい。此の書はボストン附近のイプスウイツチというところで認む。明後日、ニュー・ヨークへ帰る。此の附近はまだ雪で一杯である。(三月七日朝)
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A5変形判/上製本カバー装/平均750頁・各12,000円(税別本体価格)