米国の食品医薬品局(FDA)は、2006年12月に、「クローン動物およびその子孫の肉や乳は、我々が日々摂食する食品と同様に安全である」という発表をしたという。クローン動物の肉・乳の販売が合法化されれば、アグリビジネス企業は、その製品を販売することはもちろん、製品がクローンであるか否かの表示義務も課せられない。
かつてFDAは、死んだ家畜を生きた家畜に与えてもまったく問題はないとの見解を示した。しかし、牛海綿状脳症(狂牛病)の恐怖が世界を駆け巡ったことは記憶に新しい。
企業レベルでクローン化の採算が取れるようになれば、世界におびただしい数存在している米国発のファーストフードのチェーン店などで、早晩、規制の網をスルリと通り抜けた無表示のクローン動物の肉のハンバーガーなどが店頭に並ぶことになるのだろうか。
私たちはいつのころから、心の痛みを伴わずに、生き物を食するようになったのだろう?
日々、食卓に並んだ、牛や豚やマグロやサンマなどを、私たちは、美味しいだのまずいだのと批評しながら貪っている。いや動物だけではない、植物だって生き物だ。しかし、「そんなことを言い始めたら、何も食べられなくなる。ともかく生きていかなければならないのだから」という声が、わが心のうちにも、すぐに起こってきて、そんな逡巡などあっという間にかき消えてしまう。
今年米寿を迎えられた元研究所所長の山田宗敏師は、かつて宴席で供されたハタハタを前にして、「これはなんという魚ですか」と箸を取られたことがある。丁寧に召し上がったが、別の折に、「わしは若いころから、肉も魚も食ったことがなかったから、やっぱり米や野菜が親しいですなあ」と言われた。
初代所長の山田無文老師は、「生き物を食らうことの是非」について、「まあ、手を差し出しても逃げんものを食うことじゃな」と言われたという。仏教学者たちの戒律を踏まえての議論のなかでのその発言は、軽い笑いを誘ったらしいが、今にして、心にストンと落ちるものがある。肉体を何とか維持してゆける以上のものを食されなかった老師の、「まあ、貪らんことじゃな」というお声のような気がしたからである。
豊富な経験と卓越した技術で知られるある鍼灸師さんが、奇病だといってこられる患者さんには、どういうわけか肉食好きの人が多いですね、と言われた言葉が耳に残る。
最新のビッグイシュー(ホームレスの仕事をつくり自立を応援する雑誌)日本版の、冒頭に掲げたクローン動物に関する記事を読みながら、なんだかんだと必要以上に貪ろうとする自分の日々の在り方が、結局はあのようなアグリビジネス企業を立派に支えてゆくことに通じるのだなと、ふと思った。