社会や家庭における様々な事件が連日報道され、人々の心の荒廃が浮き彫りになっている昨今。
「教育とは」という事を議論し、子供達のためにと考えぬいて「ゆとり教育」というものが実践されてまだ数年。しかしそれももう立ち返って見直される必要性に迫られているとか。
「生死事大、無常迅速、時人を待たず、謹んで放逸すること勿れ」。禅仏教は生死を第一番の大問題にとらえています。そして、その大問題に取り組むために、禅門には師弟間の厳しい教育が存在します。
禅文化研究所でも、この禅仏教がもつ教育方法や人生観をふまえた上で、禅と教育といったテーマで提言していかねばならないところです。
そこで今回、季刊『禅文化』206号には、職員Kの大学時代のゼミ担当教授で、教育哲学が専門であられる松田高志先生に、-教育の前提としての三つの「信」-をご寄稿いただきました。
松田高志先生は、以前に禅文化研究所の哲学研究会にも所属されており、研究所ともご縁が深く、次号以降にも御自身と禅との関わり、京都大学学生時代の居士会(智勝会/於:相国寺僧堂)などについてをお書きいただく予定となっております。
松田先生は、「あぁ、そうなんだ」…と、当たり前のようであってなかなか気付かない事に気付かせてくださいます。しかも、その真理をつく文章は、深く温かくやさしく、素直に心にストンと落ちてくるのです。
是非皆様にご紹介したく、ブログにてとりあげました。
以下、季刊『禅文化』206号より抜粋--
そもそも教育は、親や教師が頑張れば頑張るほどうまくいかないということが少なくありません。逆に、とても教育(あるいは教師)とは思えないのに、子どもは生き生きと育つということがあります。これは、「教育の逆説」と言ってもよいものですが、特に今の時代は、そういうことが多いように思います。しかしそうであれば、教育としてどこに力を入れていいのか分からなくなります。
これまで教育についていろいろ考えてきましたが、このような「教育の逆説」を受けとめると、結局教育のやり方よりも、教育以前の、教育の前提となるものが先ずもって大事なのではないか、という気がしてきました。それは、安心して力を入れていいものであり、それが満たされると教育はやりやすくなり、又力を入れてもいい教育(の方向)が見えてくるが、それが満たされないと、教育はやればやるほどおかしくなる、そういう前提です。そしてそういうものとして、少なくとも三つ位あるのではないか、と思うようになりました。それらは、いずれも「信」と言えるものですが、具体的には次のようなものです。…(以後は本誌にて)
-教育の前提としての三つの「信」- 松田高志(神戸女学院大学名誉教授)