播磨灘物語 -黒田如水邸趾-

黒田如水像(崇福寺蔵)

司馬遼太郎の『播磨灘物語』を読んだ。戦国時代の武将・黒田孝高(官兵衛)が、立身していく物語である。のちに出家して黒田如水と名乗るので、その方が有名かもしれない。官兵衛は「かんべえ」と読むものと思っていたが「かんひょうえ」と読むようだ。
黒田はもと今の滋賀県北部にある木之本町黒田の出身とされる。ただし、この時代の出身地については、信憑性に欠けることも多く定かではない。祖父の代に播州に入り、小大名である小寺家に仕え、官兵衛はのちに姫路城代となり、東には織田信長、西には毛利輝元の二大勢力の狭間に位置することになったが、早くから織田につくべく主君を説得し、また孤立もし、まさしく戦国の世の中を突き進んでいくことになる。
その後、中国地方の平定のために出向く秀吉の軍師として、その力を発揮していく。特に、備中高松城攻略の際の巨大な堤防を築いての水攻め、そして直後の本能寺の変を聞いての秀吉軍の中国大返しを進言したのは、この黒田官兵衛なのである。


体格は立派ではなく、また荒木村重が信長に謀叛を起した際に、翻意させようと単身で乗り込んだが、交渉に失敗して、土牢に長期間監禁されたため、足に傷害がのこり歩行も不自由であったようで、合戦の際にも馬ではなく板輿に乗って行なっていたとされる。
しかしながら、戦国の世にあって、双方ができるだけ血を流さないように、相手方を調略によって落していくという秀でた働きはすばらしく、また、国の民をうまく徴用していくやり方は、今の世でも大いに学ぶべきところがあると思った。
研究所でこんな如水のことを話していたら、部下が京都市内の堀川一条辺りを西の方にいったところに、如水邸の跡という石碑があるのを見つけたと、写真をとってきてくれた。おまけに、このあたりは如水町というらしい。

黒田如水邸趾石碑

さらにさらに、去る16日に墨蹟の写真撮影で兵庫県西脇市の寺院へいったのだが、その寺院の住所は黒田庄町である。まさしく黒田が姫路城へ上がる前に住んでいたところなのである。