平安時代、女性は罪深いものとされ、救済への道を閉ざされていた。女身は「垢穢」であり、一たび男性になってから成仏できるという『法華経』の「変成男子」は有名である。
自身の仏道修行への道を閉ざされた平安貴族の女性たちにとっての代替措置の一つに、息子を僧侶にするというのがあった。立派な高僧となった息子を媒介として自身も救済に預かろうとしたのである。
だから、彼女たちは、大変な教育ママであった。その典型、恵心僧都源信の母は「賢母」として有名だ。『今昔物語集』などによると、次のような人物であった。
幼くしてやんごとなき学生となった源信は、大后の御八講に召されて賜り物を受けた。その一部を故郷大和の母のもとに送ったところ、母は
「…名僧にて花やかにあるきたまはむは、本意に違うことなり。」
と戒めた。母の誡励をありがたく受け取った源信は、比叡山を下ることなく修行に励んだ。
そして年月が過ぎ、源信のもとへ、母危篤との知らせが舞い込んだ。何とか親の死に目に間に合った源信の導きによって母は念仏を唱え、息子に見守られながら安らかに浄土へと旅立った。
このような「女」の願いは、自らが達成できなかった宗教的願望を、息子に投影し補償させているにすぎないとも言えよう。フェミニズムの立場からも、このような母親像は当然批判の対象とされている。
しかし、立派な高僧に成長した息子に臨終の引導を渡してもらい、その腕の中でやすらかに息を引き取る、そんな理想には、子を持つ「母」としての偽りのない喜びが隠されていることも否定できない事実ではなかろうか。