室町時代、三河国のある山里での話。
土地の領主松平太郎佐衛門尉は、慈悲深い性格で信仰心に厚く、村人から慕われていた。
雨の続いたある日、無聊をなぐさめるために太郎左衛門尉は連歌の会を開いた。ところが、書き手をする者がいない。
その時、どこから現われたか旅人が少し離れたところから見物していた。太郎左衛門尉は声をかけて書き手を頼む。するとなかなかの手で句も見事である。太郎左衛門尉はしばらくの逗留をすすめ、先祖を尋ねる。旅人は答える。
「我々時宗の僧侶と申すは、東西を流れ歩く者で、お恥ずかしいばかりです」
やがて太郎左衛門はこの旅人を婿に取り、松平の家を継がせた。これが松平親氏である。親氏から八代目の子孫が徳川家康である。
徳川家の公式見解では、その先祖は清和源氏新田氏の流れを汲むということになっている。ところが、松平郷に古くから伝わる『松平氏由緒書』には、そのような先祖を飾る記述はない。もっと素朴な、牧歌的ともいえる一族の発祥譚が記されている。
愛知県豊田市の松平郷は足助川の谷筋の国道301号線から、さらに脇に入った沢筋の土地である。その山間部のわずかな平地に、周囲を濠で囲まれた松平東照宮がある。太郎左衛門家の屋敷跡である。谷の奧には松平親氏の墓などがある浄土宗高月院がある。
このようなひなびた山里から全国を制覇した徳川家が出た。それが遽かには信じられないほど、松平の郷は静かであった。