秋晴れ気持ちよいとある日。訪れたお寺さんで、和尚さんが蕎麦打ちをされておいででした。
プロ級の腕との噂高い和尚さんの蕎麦粉を扱う手つきは、それはもうお茶のお点前でいうと「流れるかのごとく、いつ茶杓を持ち、茶をはき、いつ点て終わっていたのかわからない…」というくらい(どんな例えでしょう…)自然なのでした。
在家の身である私からすると、禅寺の和尚さんというのは、芸能人!のようです。
いろいろな方がいらっしゃいますが、上記のごとく蕎麦を打てばプロ級、うどんを打つのがプロ級の和尚さんもいます。野菜を育て、精進料理を作ったなら料理人顔負け。
その“人となり”を表すかのようにサラサラと力強く書かれる墨跡は書家の字とはまた違い、凡人には真似できない。墨絵を描かれてもそれはもう絵師のよう。楽器が得意な和尚さん、写真が得意な和尚さん。花を生ければ、一派立ち上げられては?と思うような和尚さん。ちょっとした庭だって、自分のセンスで作ってしまう。
それはもう個性豊かで、研究所で働いていますと色々な和尚様に出会えてとても楽しいものです。
「お寺」とだけ聞くと、誰かが亡くなった時のこと、お墓の事、法事の事…と、なんとなくグレーなイメージ。そんなことばかりが浮かぶかもしれません。
ですが、それだけではない!
お寺は、「死」に深く関わっている分、同じだけ「生」にも深く関わっています。
学問・芸術・伝統・哲学、あらゆる分野と関われる大いなる可能性を秘めた本当におもしろいサロンなのです。
ただ、和尚さんだって人間です。いろんな人がいます。お寺にも個性があります。
各々が、自分の人生に深く大きく影響を与えてくださるような、「この人!」と思えるような師に出会うには、「求めよ、さらば与えられん(マタイによる福音書・いきなり聖書ですが)」なのです。