山本玄峰老師のこと


般若窟・山本玄峰老師

昭和に名だたる名禅僧の一人に、般若窟・山本玄峰老師がおられる。
私が在錫した静岡県三島市の龍澤寺の住職として、私が生まれる前年に遷化された老師は、大本山妙心寺の管長も勤められ、さらには太平洋戦争の終結時、あの「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」の文言を進言され、象徴天皇制の発案をされたり、当時の鈴木貫太郎首相の相談役でもあったという傑僧である。
私が参じた宗忠老師からは二代前の先師ということになる。


さて、なぜこの玄峰老師のことを書いたかというと、先般から書いている和歌山県の青岸渡寺の近くにある湯峰温泉が、老師の生誕地であるからだ。


玄峰老師の墓への入口

残念ながら、湯峰温泉には立ち寄れなかったが、その近くの渡瀬温泉付近を走行中に、突如、上のような標識に気付いた。「玄峰老師の墓」と書いてある。
通りすぎたがUターンして車をとめ、案内に従ってみると、20段ほどの階段をのぼった山裾に、十基ほどのお墓がならんでおり、その一つに「特住妙心玄峰詮禅師大和尚」と彫られた卵塔があった。他の墓塔はというと、どうも岡村という家のお墓ばかりで、卵塔は一つ。
それも、玄峰老師のお墓だけが別にあるわけでなく、他のお墓と並んで建っている。
ひとまず手を合わせ大悲呪を一巻おとなえし、その場をあとにした。
どうしたわけだろうと思っていたが、帰宅してから調べたらわかった。
玄峰老師は、湯峰温泉の芳野屋(現・あづまや)という旅館でお生まれになったが、産まれた後旅館の前に捨てられてしまった。その乳児を拾ったのが渡瀬の岡本善蔵夫妻で、養子にして岡本芳吉として育てられたというのだ。その後出家して、得度の師の姓の山本を名乗られる。
つまり岡本家の先祖の一人ということになるわけなのだ。
湯峰にも玄峰塔という墓塔があるらしいが、この岡本家のお墓とならぶ玄峰老師の卵塔にお参りできたことで、昭和の傑僧を育てた岡本家が今もあることに感動を覚えた次第。