映画 ”禅 ZEN”を見て その2


映画「禅 zen」

1月20日のブログ記事では、映画 ”禅 ZEN”を見たというご報告だけをさせていただいた。
今回は、私なりの正直な感想を書きたいと思う。
結論からいうと酷評である。残念ながら全く以て駄作だと思うからだ。御覧になった皆さんはどうであったであろう。WEBで探すと、賛否両論あるようではあるが…。
道元禅師を讃えられている原作なので、もちろん道元禅師の素晴らしい生きざまを描こうとされたのであろう。だがしかし……。
道元禅師は入宋され行脚されるうち、当時の主流であった大慧派の禅を否定し、天堂山如浄に嗣法して帰国し、日本にその禅風を流布したのである。その禅風とは「只管打坐」、ただひたすらに坐る。そして、あるがままを受け入れるということであった。喜びも苦しみも涙も…あるがままに。
そのあるがままを表現するに、我々は誰の中にも仏があるとし、その仏を空に浮かぶ月に擬して説かれているようで、何度も「月」が登場する。
しかし、その月をあまりにも誇大化して映像にしているので、却って気になるのである。
道元が断崖絶壁にたたずむ時に、その向こうにある月はあまりにも大きすぎ、またおりんが俊了を連れてみる「田ごとの月」は、現実にありえない映像である。
あるがままであれば、どうしてもっと自然な美しい月を映像化できないのか。
また、坐禅中に道元が悟っていくイメージを、蓮の花にのってすーっと浮かんでいくように表現しているが、これは絶対やってはいけない演出である。
映画のあちこちで、こういうイメージがCGによって表現され、この映画の品を落しているのである。


只管打坐が曹洞禅の根本であるが、禅とはもっと自由で大らかなものではないか。はたして、道元の只管打坐は、この映画で描かれているようなものなのであろうか。大いに疑問を感じる。
かえって道元禅師の遺徳をけがしているのではないか。
この映画をみて、禅を正しく理解してくれるだろうか、坐禅をしようとしてくれる人が増えるだろうか、なんだかつまらなく思えるんじゃないだろうか、などと感じたのである。
それを唯一救ってくれた感がするのが、笹野高史の演じる天童山の老典座である。あの快活さが、真の禅僧なんだと思ったし、笹野高史の演技がよかったと思う。
しかしほかにも、おりんが改心して永平寺で生活しだし、俊了という修行僧がおりんに恋心をいだいてしまう。俊了は色欲の鬼が我が身にいることを羞じ、道場をあとにしてしまう。この俊了の還俗を道元は止めることができない。史実があるのか存じないが、道元のこの対応も腑に落ちなかった。あるがままを受け止めるのであれば、なぜそのままでここにいよと言えないのか。
また、おりんは最後に入宋してしまうシーンがあるが、これってフィクションにしてもやりすぎではないか。
北条の武士である波多野義重も唐突に出てきて、道元にどうして帰依することになるのかが見えてこない。
示寂直前に、八大人覚(はちだいにんがく)を弟子に説くが、文字スーパーがないので、一般には何のことかイメージさえもできない。そもそも永平寺の禅堂で示寂されるが、実際には京都で亡くなったはずである。ちなみに原作『永平の風』では、道元禅師は京都で遷化されている。なのに、なぜこんな脚色をするのか。
ともかく、「道元」というタイトルなら納得もするが、「禅 zen」というタイトルの映画としては、大いに異議あり。
自分の中の仏を再発見すること、これを禅門では己事究明といい、最も大事なことであるとするのは、曹洞宗でも臨済宗でも同じである。ただ、そのために坐禅を組むのだが、細かなプロセスが違うのだ。
御覧になった方が、これは「禅」の映画でなく、道元の生涯を描いた映画であり、さらにかなり困った脚色がされているものだと受け取って貰った方がいいだろう。