季節柄もう一つ、「梅」の話をしておきましょう。
禅僧はあまり普通の花を描いたりしませんが、蘭・菊・梅・竹などはよく描いています。これらは「四君子」として尊ばれるだけに、いずれも高い気品を備えているものばかり。
ここでは梅の木を採りあげましょう。
梅の木は、春未だしという季節に「寒苦に耐えて」、雪中に早々と蕾を膨らませます。寒さの苦しみに耐えた結果として、他のどんな花よりも早く春を伝える梅の姿を見て、禅僧たちは「苦しい修行」があったればこそ咲く「悟りの花」の美しさを思い、梅を好むのです。
たとえば徳川時代の白隠慧鶴(はくいん・えかく/1685~1768)は、その著『毒語心経(どくごしんぎょう)』(是無等等呪の項)の中で、梅の徳を讃えて次のように頌(うた)っています。
旧年寒苦梅。得雨一時開。
疎影月移去。暗香風送来。
昨是埋雪樹。今復帶花枝。
喫困寒多少。可貴百卉魁
旧年寒苦の梅、雨を得て一時に開く。
疎影月移り去り、暗香風送り来たる。
昨は是れ雪に埋む樹、今はまた花を帯びる枝。
困寒を喫すること多少ぞ、貴ぶべし百卉(き)の魁(さきがけ)。
年末には寒さに耐えていた梅が、今日の雨で一時に花を開いた。
月とともにまばらな梅の木の影が移り動き、風に乗ってどこからともなく好い匂いがしてくる。
昨日は雪に埋もれていたのに、今日はもう花を一杯つけている。
どんなにか寒苦を味わったことか。それが今、百花にさきがけて花開くとは、またなんという貴いことであろう。
梅花の素晴らしさは、冷たい雪の苦しさを耐えたという修行の賜物にほかなりません。
それは厳しさを伴う美しさであるだけに、見る者を思わず厳粛にさせるのです。とくに盆栽として育てられた百年の老木などに咲く、艶やかな紅梅の花などを眺めていると、まことに健気な感じがしますね。そこが何とも梅らしいですね。
ぽかぽかと暖かい太陽の陽射しを受けて咲く春の花々とはまたまったく異なった趣があります。
これとは別に、「曾て雪霜の苦に慣れて、楊花の落つるも也(ま)た驚く」(虚堂録)というような禅語もあります。厳しくて辛い修行に耐えてきたものにとっては、暖かい春が来て柳の花の散るような些細なことにさえハッとする、というような意味です。これはある意味で、修行時代の苦しみを懐かしむ句でもありますが。
因みに、「不生禅」(ふしょうぜん)で有名な徳川初期の盤珪永琢(ばんけい・ようたく/1622~1693)という禅僧は、川べりで顔を洗っているとき、どこからか匂ってきた梅の香りによって、「不生の証拠」を掴んだ、つまり自分の悟りをしっかり確かめることが出来たと書いていますが、梅の香にはそんなハタラキさえあるようですね。
禅文化研究所 所長 西村惠信