4/5の日曜日の朝日新聞の朝刊を読んでいたら、”「おくりびと」に危機感”と題して、全日本仏教会長の松長有慶師(高野山真言宗管長)の記事があった。
僧侶の立場から「おくりびと」をどう見ましたかという質問に対し、
――葬儀はこれまで仏教の専売特許のような面が有ったのに、僧侶を含め宗教者は葬式にはいらないという雰囲気を感じた。
と答えられている。
確かに、「おくりびと」では僧侶はほとんど出てこなかったように思う。だが私はだからこそ、危機感というよりも、僧侶である自分自身のためによかったと思ったのだ。この映画を見ることによって、僧侶である自分が知らなかったことがわかってよかったのだ。
だが、松長師は、
――葬儀が形式化し、僧侶はお経を読むだけになってしまったという反省がある。多くの人が病院で亡くなる今、生命は医者の手に委ねられ、かつては僧侶が臨終に立ち会ったが、それが今では葬儀業者の担当である。僧侶が葬儀を通じて死の問題に介在することが難しくなっている。
とも仰っている。確かにそれはその通りである。
だが、ならばこそ我々僧侶は「生きる」ということについて、もっと目を向けなくてはいけないのではないだろうか。我々僧侶が、この現代でしなければいけないことは、そこにあるのではないように思う。
実際には、葬儀の儀式が儀式としてのみ一人歩きし、そんなことに高額な費用を費やすことに意味を感じなくなっている現代人が多いのである。しかしそういう方々は「生きる」ということについてさえも、自分を見つめて考えたことがないのではないだろうか。
「生きる」ということとしっかり向かい合うこと、これがいずれくる「死」と向かい合うことになるのだと思う。
それを伝えていきたいと私は思う。
もちろんそれを伝えるのに、親しい人のお葬式は絶好のチャンスではあるのだが。
――納棺師が、亡くなった人を死体ではなく、死者として扱う姿に人間の尊厳を感じ、多くの人が共感したのでしょう。人間を物として扱うべきではない。今ではいのちまでもが「物」として扱われている。
これはまことにそのとおり。
この映画については、以前にも絶賛したとおり、すばらしい映画だった。
だがしかし、これによって我々僧侶が危機感を覚えるというのは、いかがなものかと思った次第。
妙心寺派が発行している『花園』誌2009年4月号に、「おくりびと」の原作となった『納棺夫日記』の著者、青木新門さんの特別寄稿が掲載されている。
それによると、この映画の制作にあたって紆余曲折があったらしく、そのなかで、主演の本木雅弘さんが純粋な求道心をもって望んだことが、この映画の誕生に大きく寄与したというようなことが書かれている。そして、青木氏は次の様に書かれている。
――本木君は仏法の何たるかを知っていたわけではない。ただ彼を突き動かした純粋な求道心が映画「おくりびと」を生んだと云っても過言ではない。
つまり、「おくりびと」はお葬式の一部をテーマにした映画ではあるが、何もお葬式のあり方を考えるべきものではないのである。生と死に真っ向に向き合おうとすることこそ、この映画の主眼であったのだと思うのである。