-初発心時、便成正覚- えしん先生の禅語教室 その5

新しい環境はどうですか?

-初発心時、便成正覚 しょほっしんじ、べんじょうしょうがく-
「発心」というのは「発菩提心」(ほつぼだいしん)の略で、仏道を修行して悟りの彼岸へ渡りたいという願心を持つことです。今日の禅語「初め心を発する時、便ち正覚を成ず」は、『華厳経』に出てくる言葉で、仏教一般に通じるものであって、特に禅宗だけのものではありません。
しかし禅の専門道場に入門しますと、修行を始める者の心構えとして、真っ先にこの言葉が与えられるのが習いです。とにかくこれから修行しようとするものは、さあやるぞという主体的な心構えがいちばん大切であって、そういう意欲がないものは、いくら道場へ入門してみても、生活に馴れてくると共同生活の要領ばかりが良くなり、自分の修行はさっぱり進まないので、その点について最初にしっかり釘を刺されるわけです。
四月になって全国津々浦々で、入学式や入社式が行われたことでしょう。そして皆さんは今までとすっかり違う環境のなかで、毎日を新鮮な気分で過ごしておられることでしょう。しかしそんなうれしい日は束の間のことで、半月もすれば環境に馴れて、当初のフレッシュな気分も弛んで、生活がマンネリ化してしまうことでしょう。
たとえば新しく大学生となった場合でも、入学式の日に会場に坐っている人の姿はみんな同じです。しかしこれからしっかり専門の知識を身に付けて、卒業の暁には立派な職業人として人生を送るのだ、という目的意識と意欲がしっかりしている人と、動機性が曖昧なままそこに坐っている人とでは、もうはっきりと大学生活の成果が決定されてしまっているのですね。
要するにどんなことでも、自分にやる気がなければ何一つ成功しないということで、あまりにも分かりきった話ですが、どうやら動機曖昧が今の若い人の傾向のようですね。


もし自分にでも出来るのならやってみよう、というような「偶然の成果」を追う人は、いかにも非主体的です。出来ても出来なくても、そんなことは問題ではない。結果は二の次であって、自分はどうしてもこれがやりたいのだという「必然的要求」を持って事に当たること、これが大切なのです。私は学生の頃、カントの哲学からそれを学びました。
出来れば良い人生にしたいでは駄目。「自分の人生は、素晴らしいものでなければならない」いう、自分に向けた命令をカントは「実践理性」と呼んでいます。そういう崇高な「道徳的要求」(カント)には、他人が指一本触れることさえ出来ないというのです。その時その場の状況に従って受動的に行動するのではなく、こちらから環境の方へと要求を「投げ入れて」いく主体的態度、これが必要なのです。
表題の禅語「初発心の時、便(すなわ)ち正覚を成ず」は、まさにそれと同じことが仏道修行者のあり方として説かれているのです。徳川時代の禅僧白隠は、『壁生草』(いつまでぐさ)という書物の中で、「勇猛(ゆみょう)の衆生の爲には、成仏一念に在り。懈怠(けたい)の衆生の爲には、涅槃(ねはん)三祇(さんぎ)に渉(わた)る」と書いています。
励んで修行する人には、成仏(悟った人になる)は一瞬のことであり、嫌々修行する人には、悟りの世界は永遠にやって来ない、という誡めです。人生という修行道場で勝つか負けるかは、いま新しく出発するあなた自身の主体的姿勢にかかっているのです。
そういう生き方を教えるのが、「禅」の修行でありましょう。
禅文化研究所 所長 西村惠信