-至道無難、唯嫌揀択 しどうぶなん、ゆいけんけんじゃく-
初祖達磨大師から数えて三代目の祖師に、「三祖僧粲(そうさん)大師」と仰がれる方がおられます。この人が撰したという『信心銘』は四言対、一四六句の銘文で、禅門では「禅宗四部録」の一つとして大切にされてきたのです。
『禅宗四部録』という書物は、頭を剃って法衣を身につけ、禅寺の小僧になったものが携行して学ぶ、禅入門の基本典籍で、「信心銘」、「証道歌」、「十牛図」、「坐禅儀」を合わせて一本としたものです。『四部録』の提唱本や講義録は今日、どこの本屋さんにも並んでいますから、皆さんも手にとって見てください。私もいま禅文化研究所で、一般市民の人を対象に、毎週火曜日の三時から五時まで、「信心銘研究会」を開いています。関心のある方はどうぞご参加を。
さて『信心銘』を作った僧粲は、五世紀から六世紀初頭(六〇六年沒)に生きた人ですから、『信心銘』は達磨からまだ百年しか経っていない禅宗初期の語録です。したがってその語句にもまだ禅語らしいものは一つも出てきません。使われている語句は、日常使うような普通名詞ばかりであり、その内容も終始一貫して「信と心は二つではない」ということを、繰返し述べるだけで、現在のように煩瑣な論の展開とか、狐につままれたような禅問答というものはありません。実に素朴かつ端的に禅の根本を説いたものです。
「信心」とは読んで字のごとく、「心を信じる」ということです。仏教では「心」のことを特に「仏心」と呼びます。しかも私達は、そういう自分に生得的な仏心を信じる働きもあわせ持っています。それを信じる心としますと、そういう能動的な心と、それによって信じられる受動的な心とは一つのもの、つまり「信心不二、不二信心」というのが、『信心銘』全体を貫いているモチーフです。
そのように言われてもわれわれ凡夫は、なかなかそういう結構な自分の仏心を確信することはできません。だから自分勝手に自分の中で、ああだこうだと迷っては苦しんでいるのです。迷うばかりでなく、どうかしてその迷いから覚めて仏のようになりたいものだという人間らしい願いを持っているのですね。
ところがそういう人間の理想主義を否定して、迷うことなく現実を生きよというのが、今回の禅語「至道無難、唯嫌揀択」という『信心銘』冒頭の二句であります。この世界や、その中に生きるものは、例外なく「至道」という素晴らしい真実のなかに置かれているのであり、そこから外れるものは一つもない。だから、迷うことも悟りを求めることもないのだ。至道というものはわざわざ求めなくてもわれわれはすでにその中にいるのだと。それを「至道無難」と言っているのです。「無難」とは「困難なものではない」とか、「いつでも、どこにでもあるもの」という意味です。ただそれを知らない者だけが、自分の現実に満足できず、もっと他に真実というものがないかというように、在りもしない幻想を追って「揀択(けんじゃく)」(こだわる)するのですが、それこそが迷いというものなのです。
この現実世界はこのままでもともと素晴らしい理想境であり、この現実以外にどこを探しても、理想的なところは他にはないということです。もしそうなら、無理に坐禅修行などすることもないと言って何もしないでもよいかというと、そうは行きません。坐禅に拘ってもいけないし、坐禅をしないということを揀択してもいけないのです。
世のなかには善いことと、悪いこととが二つにはっきり別れています。だからと言ってそれらの片一方を「揀択」(えらぶ)するのがいけないのですね。幸福と不幸の違いは、誰でもよく知っていて、不幸を避けて幸福を求めようとします。しかし不幸がなければ幸福もありえず、幸福であることは不幸ではないということです。そしてそれらのどちらを揀択しても不安をともないます。
そこで私たちがもし「真実の世界には幸と不幸、善と悪の両方が含まれている」という真実(至道)に覚め、一真実としての「至道」をしっかりと歩めば、それこそ「至道無難」の大道を生きることができるでしょう。それ以外にこの世界の素晴らしい生き方はないのであり、そう確信することが「自信」であり、ここで言う「信心」にほかならないのです。