愚堂禅師の墨蹟の所在のほとんどは、開山されたお寺の多い岐阜や三重、あるいは京都を中心とした近畿圏なのであるが、大分県にも開山されたお寺があり何本もの墨蹟があるので、遠路を九州へと向かった。
今回わざわざ九州まで出向いた理由のもう一つが、福岡県うきは市に残る愚堂禅師の鐘銘の入った梵鐘を撮るためなのである。
太平洋戦争の時には、自坊の梵鐘もそうなのだが、多くの寺院の梵鐘は兵器のために金属供出にあってしまった。
実はこの鐘も、昭和17年秋に供出されんとして鐘楼から下ろされ、お別れの供養法要まで行なわれたという。
ところが下ろした梵鐘を確かめたところ、愚堂東寔禅師の銘が刻されていることが判明し、急遽、保存申請をしたところ、当時の九州大学教授の干潟竜祥教授の調査によって、保存の価値が認められ供出の難を免れたのだという。
実はこの浄満寺は、浄土真宗のお寺なのである。
なぜ愚堂禅師と浄土真宗が?と思われるであろう。もちろん、本来、直接的な関係はないのだが、銘によると、そもそもこの鐘は、現在の大分県日田市の大原八幡宮とともにあった神宮寺のために、寛永7年に鋳造され、寛永13年になって愚堂禅師の銘が刻られたものである。その後、明治5年に浄満寺に移された時の追刻もある。
神宮寺からなぜ浄満寺に移されたかは不明だが、ご縁によってこの浄満寺で護持されていた梵鐘が、戦時供出にも難を逃れたことは幸いというべきではなかろうか。
そして350年経った今になって、遠諱に際して語録や図録で知らされることになる。
東寔の文字が見える部分。写真を拡大するとご覧いただけます。