愚道禅師の墨跡撮影行で尋ねた大分県。
今まで何度も大分には来ているが、国東半島より福岡側には足を向けたことが無かった。
今回の撮影で大分に入ってから、僧堂時代の先輩のお寺に電話をかけて、愚道禅師のものを御所蔵になっていないかを聞いたら、ご実家であるお寺にはあるかもしれないとのことで尋ねていただいたところ、1本あるという貴重な情報を得たので、国東半島の北に位置する中津へも撮影に立ち寄らせてもらうことになった。
予定時間より少し早くついたので、近くにある中津城という平城を訪ねてみた。
もともとこの城は、戦国時代の武将、黒田如水が築城を始めたものらしいが、戦功により転封となり築城が中断された。のち、細川忠興、小笠原長次の居城となったが、奥平昌成が入城した後は明治維新まで奥平家の居城だった。
きれいな城郭だと思っていたが、じつは江戸期当時はこのような天守がなかったらしく、昭和39年に観光目的で小倉城や名古屋城を真似て建築されたものらしい。
ところが、今やその観光客も数が減り、入場料収入が維持費を下回るため、所有者である奥平家の末裔は、中津市か民間企業に売却を検討しているらしい。
なんとも情けない話ではある。
しかし、お城だけではなく、今回の撮影に回ったお寺でも、当時の領主だったお殿様の一寄進で建てられた寺院があり、そういうお寺に限って伽藍は大きいのに檀家が少ないのが実情。
広大にあった農地も農地解放でなくなってしまい、ひいては維持管理さえままならないという惨憺たる様子を目の当たりに絶句したのだった。
盛者必衰のことわりかもしれない。
ともあれ、この中津は蘭学をはじめ学問が盛んだったようで、『解体新書』の翻訳者の一人、前野良沢は中津藩の藩医であったし、近代歯科の先駆者の小幡英之助も中津藩の出身、偉大なる福沢諭吉も中津で生まれた。明治維新の頃のことである。