-本来無一物- えしん先生の禅語教室 その8

雨に濡れる金糸梅

-本来無一物-
今回は床の間によく掛かっている、「本来無一物」という禅語についての勉強です。これは達磨大師から六番目に当たる祖師、六祖慧能(えのう)大師が述べられた言葉です。慧能の語録である『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、禅僧の語録でありながら、「経」と名づけられたほど、その取り扱われ方は破格だったことが分かります。
『壇経』はお授戒の時に慧能大師が戒壇の上から説かれた説法の記録だという形をとっています。しかし、この語録は実際には慧能の弟子の荷沢神会(かたくじんね)という人が、先生の慧能こそは禅宗の正系第六祖であると主張するために、意図的に編集した書物だとされています。
ですから慧能の人柄や思想を、なるべく北宗の代表的禅者である神秀(じんしゅう)のそれと際だって対立するように書いてあるのです。特に慧能の思想的特色は、「頓修頓悟(とんしゅうとんご)」にあるのだと強く主張しています。
五祖弘忍大師の一番弟子であった神秀は、実際に洛陽や長安といった中央で、「両京の帝師」として仰がれた立派な禅僧でした。しかし慧能の法をついだ神会などの勢いが強くて、その法が平安時代には日本にまで伝わりながら、後が続かなかったのです。
他方、中国大陸の南の方で盛んになった慧能の「南宗禅」は、神秀の「北宗漸悟」に対して「南宗頓悟」の禅と呼ばれて、唐宋の時代に中国全土に広がって発展し、宋時代に中国から受け継いだ日本の禅宗は、すべてその法を受け継いでいるわけです。
さてそういう意図で編集された『六祖壇経』のなかに、五祖門下の高足で、学問にも秀でていた神秀上座(じんしゅうじょうざ)の偈(うた)と、米搗き所で米を撞いていた、まだ行者(あんじゃ・剃髪得度しないお寺の小間使い)であった廬行者(ろあんじゃ)の頌とが並べてあります。


神秀上座の頌。
  身は是れ菩提樹(身体はすばらしい悟りの樹)、
  心は明鏡台の如し(心は透明な鏡のようなもの)。
  時時に勤めて払拭して(何時もせっせと磨いて)、
  塵埃をして染めしむる莫れ(埃で汚さないようにせよ)。
廬行者(慧能)の頌。
  菩提もと樹なし(悟りなどというものはない)、
  明鏡亦た台に非ず(明鏡などという立派なものもない)。
  本来無一物(もともと何もありはしないのに)、
  何れの処にか塵埃有らん(どこに塵や埃のたまるところがあろうか)。
神秀は煩悩の塵を払って悟りを求めるような坐禅修行に励めと言うのですが、これはもちろんインドいらいからある禅定の目的です。そこにはどうしても習定ということが中心にあるわけです。
ところが慧能は、そういう伝統的な禅定思想に対して、革命的な思想を打ち出したのです。前回に書きましたように慧能は、禅宗を禅定主義から「智慧」第一主義へと転換させたのです。それが中国禅のインド禅(如来禅)からの独立でした。
「本来無一物」は、迷いの煩悩を否定して菩提(さとり)を求める迷悟二元主義を超越せよということです。迷いの向こうに悟りなんかありはしないということです。それに気付くのが「頓悟」です。
「頓」は素早く悟るというような時間的な早さではありません。迷いに対する相対的な悟りを超越してしまえという論理的なレベルの「頓」なのです。それが「本来無一物」ということでしょう。いや、話が少し難しくなってせっかくの墨蹟も味気なくなりますから、今日はこれくらいにしておきましょう。