思文閣美術館HPより転載 アーミッシュのバギー
「“アーミッシュ”といえば、アメリカで昔ながらの生活を営むコミュニティを作っている人々」という事くらいしか知らなかった私は、この思文閣美術館での展観を知り是非でかけてみたいと、前もってインターネットでアーミッシュについてを調べた。
するとすぐに2006年に起きた悲しい事件を知った。
アーミッシュの子供等が通う小学校で起きた銃乱射事件。何人かが犠牲になったものの、そのコミュニティの人たちは、犯人と家族をすぐに赦し、思いやり溢れる行動を取ったとの事(犯人はアーミッシュではない)。さらにアーミッシュについて知りたくなった。
アーミッシュのルーツは、ヨーロッパで幼児洗礼を否定し、洗礼は成人して後自らの選択で行うべきだと唱えたアナバプテスト(再洗礼派)で、厳しい弾圧と迫害を受けた人々だそうな。そのような歴史的背景もあり、平和主義を貫き、現代文明や世俗からは離れ、信仰に基づいた独自の生活を送っているらしい。
今回の展観では、その生活の柱となる聖書、マーティスミラー(殉教者の鏡)、アウスブント(宗教の歌集)を中心に、彼らが住む家の建築方法から日々の生活道具、衣服など、アーミッシュについてをよりよく知る為に充分な展示となっていた。
さて、我々凡夫(私は在家です)からはほど遠い清らかな信仰と、凶悪犯をも赦す悟ったような深い心を持つ彼らを、私はどこか違う世界の人のように遠くから観ていた。
だが、アーミッシュの悩み事Q&Aのような掲示板の展示もあり、それを読んでいて、やはり変わらぬ人の子なのだな…と、どこか微笑ましく思えた。
その悩みとは、「自分の子供がアーミッシュとしての生活を捨て、町へ出て行ってしまう。悲しい、辛い、なぜこんなことになってしまうのか……」という嘆き。
アーミッシュのルーツが、そもそも洗礼は成人してから自分で選択すべきだと唱えたアナバプテストでありながら、自分の息子が自由な選択をして町へ出て行く事を嘆く…。息子には息子なりの人生を歩む、生活を選ぶ権利はあるだろうし、一個人として祝福はできないものなのか…。親心、信仰心、アーミッシュとしての生活を誇りに思う心がそれを妨げるのか。まだまだ彼らのことについては知る余地があった。
昨今日本でアーミッシュのブーム…とまではいかないかもしれないが、関心を持つ人が多いという。
スローライフへの憧れや、本当の幸せな暮らしとはどういう暮らしか…というところで行き詰まっているのだろうか。
アーミッシュの暮らしから智恵を拝借する事はできると思うものの、大前提として彼らの暮らしやコミュニティにはまず信仰というものがある事を忘れてはならないし、それがあるからこそ成り立っているのだろうと私は思う。
とはいえ、自国の文化や神々を大切に敬いつつも、他の国からの宗教や慣習などもおおらかに受け入れてきた我々和の国の日本人であれば、アーミッシュの暮らしもうまく自分達の中に取り込んで行けるのかもしれない?!