大いなる哉 心や -栄西禅師-

京都 建仁寺

来たる平成26年の“建仁寺開山栄西禅師800年大遠忌”にむけて、研究所でも遠忌事業の一環として、書籍の発刊など、建仁寺さんからの依頼にてお仕事をさせていただいております。
栄西(ようさい)禅師といえば、中国より茶の種を持ち帰り、広く一般に喫茶の習慣が広められるきっかけを作られた方として茶祖と崇められますが、禅師による『興禅護国論』の序文の内容の格調の高さはもちろんいうまでもなく、日本語の美しさをも気付かせてくれます。私の中では、紀貫之の『古今和歌集』の
やまとうたは、人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思うこと見るもの聞くものにつけて言い出だせるなり。花に鳴くうぐいす、水にすむかはづの声をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
-『古今和歌集』仮名序 より-
と並んで大好きな一文です。
大いなる哉、心(しん)や天の高きは極む可(べ)からず、しかも心は天の上に出づ。
地の厚きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ。
日月の光はこゆ可からず、しかも心は、日月光明の表に出づ。
大千沙界(だいせんしゃかい)は窮むべからず、しかも心は大千沙界の外に出づ。
それ太虚(たいこ)か、それ元気か、心は則ち太虚を包んで、元気を孕(はら)むものなり。
天地は我れを待って覆載(ふさい)し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。
大なる哉、心や。
-『興禅護国論』序 より-


さて、ある人に、「人間の脳の事をもっとよく知り、今まで治せなかった病気を治す為、一番ヒトに近いゴリラの脳を使って研究をするらしいけれど、動物愛護団体からの抗議がものすごいんだって。今では、ゴリラを殺さずに研究ができないか、その方法が模索されているらしいよ。どう思う?」と聞いた所、その方は苦笑して、
「いくらゴリラが人に近いとは言っても、人間は人間でしょう(笑)。ゴリラではないからねぇ。それよりも、人間の“心”をもっともっと知ろうとしないでどうするの?」
と言われ、ハッとしました。
最初は一見話がずれているように思いましたが、後から考えると、やはり真理を突いている気がしました。
研究所発刊の、山田無文老師の『和顔』にも、栄西禅師の“大いなる哉 心や”についてふれられています。抜粋し、ご紹介して本日のブログは終わりたいと思います。
心はよく鏡に譬えられますが、鏡は、小さな鏡であっても、富士山も入れば太平洋も入る。なぜ入るか。鏡の中は無だからです。世界中がことごとく自分の心の中へ入ってしまって、狭さを感じない。心は、全宇宙を包容してなお余裕のある大きなものである。わが心はそういう偉大なるものです。
-『和願』山田無文老師 より-