-南岳磨甎- えしん先生の禅語教室 その10


秋ですね

-南岳磨甎(なんがくません)-
世間の夏休みに倣って、私の禅語教室もしばらくお休みを頂きましたが、ようやく思索の季節を迎えましたので、また始めることにします。
前回には、六祖慧能に参じた南岳が、「説似一物即不中」と答えて六祖に認められた話をしましたが、今度はその南岳が立派な禅の師匠となって、後に自分の法を嗣ぐことになる馬祖道一(ばそ どういつ、709~788)に、はじめて出会った時の「南岳磨甎(なんがくません)」ということばについて話してみましょう。「甎」(せん)という字は瓦の旧字。つまり南岳懐譲和尚が瓦を磨いたという意味の、よく知られた禅語ですから憶えてください。
中国では開元と言われる年頃、道一という沙門(お坊さん)が、伝法院に住んでいました。彼は朝から晩まで、坐禅ばかりしていました。南岳和尚がこれを聞いて、この男は見込みがあると見ると伝法院へ出かけていきました。案の定、道一は眼を瞑って頑張って坐禅をしています。これを見ると南岳が、「お前さんは何の目的で、そんなに力んで坐禅ばかりしておられるんじゃな」と聞きますと道一は、「何とかして仏になりたい一心で」と答えました。すると南岳は、どこからか一枚の瓦を持ってきて、庵の前の岩の上でそれを、ゴシゴシと磨き始めたのです。
道一が驚いて、「老師はそんなことをして、何になさいますか」と聞くと、「鏡を作ろうと思ってな」との答え。「瓦を磨いても、鏡にはなりますまい」と言うと、「坐禅しても仏にはなれるまい」。「それじゃ、どうすればよろしいのですか」と問い返すと、「人が駕(馬車)に乗って行くとき、車が止まったら車を打つがよいか、牛を打つがよいか」。道一はグッと詰まってしまったのでした。
南岳は続けて次のように言われたのです。「お前さんはそして坐禅を学び、坐仏を学びたいのであろう。しかし、もし坐禅を学びたいのなら、禅というものはそんな格好の上にはないのだ。また坐仏を学びたいというのなら、仏さんはそんなにじっと坐ってばかりいるものではない。無住法(決まった形のない仕方)において、取捨してはならぬ(わざとらしくないのがいい)のだ。お前のように格好ばかり仏さんでは、かえって仏を殺すことになる。また坐禅の姿にばかりに執著していると、とうてい真理には到ることはできまい」。これを聞くと道一は醍醐(美味しいもの)を飲むような思いがしたという。
(『伝灯録』南岳懐譲の章)
南岳は六祖慧能の教えを受けて、インドいらいの「如来清浄禅」から、日常生活の中でのはたらきを重視する禅、つまり般若の智慧を重視する「祖師禅」を行じていました。
六祖から始まった頓悟頓修を本質とする新しい禅思想の特色は、このように悟りを得るための坐禅から脱皮した点にあります。もちろんこれは坐禅とは何かという本質論であって、坐禅を否定したということではありません。坐禅という形に囚われない禅ということです。
現在の日本の禅で、このように坐禅と智慧の一致(定慧不二)を実践しているのは曹洞宗の「黙照禅」です。反対に臨済禅では、特に白隠禅師いらい悟りを得るための厳しい坐禅を実践しています。この違いについては、後に詳しく説明することにしましょう。