打算


秋の朝露

私の鍼灸師さんがかつて言ったことがある。
「配偶者を決めるとき、電車で足を組むような人は絶対やめといたほうがいいでしょう」
私は一瞬とまどった。そんな人は不遜な性格だという意味だろうか?
「足を組む癖のある人は早晩必ず大病します。身体に強い歪みがあるはずですから」
ちょっと目からウロコだった。配偶者を選ぶときに、身体の歪みのことを考える人はあまりいないかもしれないなと思って、ちょっと可笑しかった。
人間の関係を突き詰めると、どんなに密接な間柄でも微かな打算が入り込む。悲しいかな、親子だってそうだ。息子や娘の配偶者を探している親が、「自慢の息子です」とか「非の打ち所のない娘です」という場合、ほぼ例外なく世間のものさしが働いている。学歴、職業、収入、身体的美醜、性格の良し悪し等等。
医者だの弁護士だのという息子をもったおかあさんは、ただそれだけで、失業中で途方にくれている息子をもったおかあさんよりも、嫁選びの際には、ちょっとばかし鼻息が荒いというのが正直なところだろう。
ヘルマン・ヘッセに『デミアン』という小説がある。初めて読んだとき、母親と息子がこれほど美しく描かれた物語が他にあるだろうかと思った。もし息子がこんな母親を持つことができたら、至福以外の何物でもないだろうと思った。もし母親がこんな息子をもつことができたら歓喜以外の何物でもないだろうと思った。
母親は息子デミアンをも真に「正しく見」る「正思惟」の人である。そのことを完全に理解しているデミアンは母親について、「母は大丈夫です、世界でもっとも大丈夫な人です」と言う。不思議なことだが、デミアンは「私の」母だから母親を敬愛しているのではないし、母親は「私の」息子だから、デミアンを愛しているのではないように思われる。
二人の関係には、究極の打算である「私の」が欠落している。配偶者がデミアンであり、義母がデミアンの母であるような女性のことをふと思ってみる。「浮世」が遙か遠くに思われることだろう。
我に返って、このシャバで、浮世のものさしを考えたとき、さきの「身体の歪み」云々は、打算のなかでも比較的かわゆいものかもしれないなと、ふと思ったりした。
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