-生死事大、無常迅速- えしん先生の禅語教室 その11


板(はん)

-生死事大、無常迅速 しょうじじだい むじょうじんそく-
禅寺の玄関に、「板」(はん)という、客が打って来訪を知らせる四角い木板が掛かっているのを見たことがありませんか。ほんらいこの縦横50センチの分厚い板は、禅の専門道場の坐禅堂に懸けられていて、雲水(修行者)たちに一日に三度、時間を知らせる道具です。そういえば「道具」という語は、「仏道修行の用具」という意味の仏教語なのですが。
禅宗の本山を訪れると、とつぜん辺りの静寂を破って、この板を三度繰返し連打する音が聞こえてくることがあります。朝は薄明のなかに立って掌のひらの線があらわれる頃、夕方はこの線が消えて見えなくなっていく頃、そしてもう一度は夜の九時と、三回にわたって修行者たちに時を告げているのです。
ところで、この「板」には必ず、「生死事大、無常迅速、時不待人、謹勿放逸」と書いてあります。「しょうじじだい、むじょうじんそく、とき、ひとをまたず、つつしんで、ほういつなるなかれ」と読むのです。「生死事大」という語は、敦煌本『六祖壇経』に、すでに五祖弘忍大師の語として、「吾は汝に向かって説かん、世人は生死事大と」と出ています。
人間にとって生と死は、人生上の重大な課題であるということです。五祖は八世紀前半の人ですから、なんと古い言葉じゃありませんか。それが今でも使われているのですから、まさに人間存在にとって生死は永遠の課題というべきです。
六祖慧能の法を嗣いだ弟子の一人に永嘉玄覚(ようか・げんかく/?~713)という人があります。彼は初めて六祖に見(まみ)えたとき、錫杖を持ったまま六祖の坐っている椅子の周りを三度回ったあと、初めて六祖の前に立ちました。六祖が「沙門はもっと威儀を慎むものだ」とたしなめると彼は、「生死事大、無常迅速」と答えたのです。(『祖堂集』巻三、一宿覚和尚章)。
玄覚にとっては、禅の修行者はそんな礼儀作法よりも、生死の問題こそ一日も早く解決しなければならない問題なんだ、と言わぬばかりの勢いですね。
六祖は沙門に生死などあり得ないとか、時間に遅速など無いんだとか言ってきかせますが、玄覚はなかなか負けていません。
ひとわたりの問答をすると、彼はただちに六祖の道場を去ろうとしました。どうしてそんなに急ぐのかと六祖に引き止められ、
一晩だけ止宿すると翌朝、「六祖に出会ったお蔭で、もはや生死が問題でなくなったわい」と言って山を降りていきました。
これによって彼は、人々から「一宿覚」と呼ばれるようになったのでした。
さて、「板」に書いてある、「生死事大、無常迅速、時不待人、謹勿放逸」ですが、「己事究明」(自己とは何かの追求)を本命とする禅僧にとって、この自分がいかに生き、いかに死んで行くかは、まさに喫緊の課題でなければなりません。これを解決しなければ、わざわざ頭を剃って禅僧となった意味がないのですから。
ところが一方で、仏陀が「諸行無常」と説いているように、時間というものは遠慮なしにどんどんと過ぎていきます。うっかり暮らしていると、真実の自己に出会わないままに、すぐに死を迎えてしまうことになり、何ともしゃんとしない人生で終ってしまうことになります。まさに「時、人を待たず」です。
そうなると禅の修行者は、ひとときも悠長な時を過ごすことはできないでしょう。だから「謹んで放逸なること勿れ」と、古人は誡めているのです。道場で朝晩「板」を打つのは、これを聞く修行者に、常に時の無常を喚起させるためでありましょう。
禅の修行者に限りません。私たちもまたうっかりすると、時間の経つのを忘れがちですね。フランスの作家ジャン・コクトーに、「人生は水平方向に落ちていくことである」という恐ろしい言葉があるそうです(晴山陽一『すごい言葉』)。よほどしっかり前方を見つめて生きないと、死に向かって進んでいることを忘れてしまうのですね。
西村惠信