-如日出時、不合於暗、智慧日出、不与煩悩暗倶-
日の出ずる時、暗に合せざる如く、智慧の日出ずれば、煩悩の闇と倶ならず
南岳懐讓の法を嗣いだ馬祖道一(ばそ どういつ/709~788)禅師の言葉です。朝、東の空から太陽が上がると、昨夜から地上を覆っていた闇が一掃されて、世界はいっぺんに明るくなります。その時、夜来の暗はどこかへ消えてしまっています。
暗い部屋を明るくしようとするとき、部屋から闇を追い出してから、明かりをつける必要のないようなものですね。明かりをつけるだけで、一瞬に闇はなくなるのですから。
私は毎朝、愛犬を連れて田んぼ道を散歩するのを、この頃の楽しみにしています。殊によく晴れた日など、真紅のでっかい太陽が、東の山の端から顔を出したかと思うと、見る見るうちに全体を露現していき、あっという間に山際を離れていくのは盛観ですね。あの、ほんの五分ばかりの、暗から明への転換のひととき、これほど素晴らしいものはないと思えるほどです。
秘書の岡村さんから聞いた話ですが、鈴木大拙博士はよく、顔を洗っておられるとき、東の空から昇る朝日を見ると、「美穂子さん、見てごらん、いま如来さまがお出ましじゃ」と言って拝まれたそうです。私も歳のせいか、日の出にめぐり会うと、歩みを止めて東の方に向かい、この世界に光と熱を与えてくださる太陽に、「有り難うございます」と心から感謝の合掌をさせて貰っています。
太陽の昇ったあと、まだ西の方に暗が残っていて、たとえしばらくの間でも、明るさと暗さが同居する、ということはないわけです。ですから馬祖和尚の語も、「日が出ると、もはや暗と出会うことはない」と言われているのです。暗か明かのどちらかで、二つが両立することはない、ということです。
馬祖和尚はそういう例を挙げておいて、迷いと悟りの関係を説かれたのです。ちょうど朝日の明るさと夜の暗さが両立しないように、悟りの智慧が開けると同時に、迷いの闇は消えて無くなってしまう、というのです。
われわれも時々、まだ半分しか悟っていませんなどと言いますが、そんなのは悟りと言えないようですね。悟るなら悟るで、もはや一片の迷いの雲もなしとならなければならないのです。
ところで、考えてみますと、日が出て明るくなったということは、それまでが暗かったから分かることですから、明るさを喜ぶための条件として、まず暗闇というものがなければなりません。明と暗とが両立せず、どちらか一方だということは、お互いはまったく反対の物でありながら、同時にその反対が無ければどちらも成り立たない、という相補関係でもあるわけです。ここが「実在」(本当のもののあり方)というものの面白い処ですね。これが西田哲学で言う「絶対矛盾的自己同一」という実在の風景なのです。
私の好きな句に、「松蔭の 暗きは月の 光かな」というのがあります。月の光が強ければ強いだけ、松の蔭は暗くなるということです。光と闇は反対のものであるとともに、お互いが相手をはっきりさせる物として、はたらき合っているのです。
迷いと悟りの関係も、これとまったく同じです。迷いと悟りには、真ん中がありません。二つはまったく反対の精神のあり方です。しかも迷いが無ければ悟りもないということになるのです。「悟りは、迷いの道に咲く花である」と言うのがそれです。迷いの道で無くては、悟りの花は咲かない道理です。禅宗で「大疑の下に大悟あり」と言われるのは、そういうことなのです。
よく、私には悟ることなどとてもできません、と言いますね。それはその人が人生について、真剣に悩んで(迷って)いない証拠です。昔の偉い禅僧は、迷って、迷って、迷い抜いた人であったのです。いい加減なしあわせに満足している今日のわれわれには、どうやらほど遠い話のようですね。