昨年末、加藤さんの「ほろ酔いコンサート」に行ってきた。
満席の老若男女が結構ノッていたので驚いた。今回のテーマは「1968」。
この年に格別の思いを持たない若い人もノッていた。新しい曲の披露は極めて少なかったが、なにか新しい感じがした。’68の回顧ではなく、今の「1968」を加藤さんは歌っていたと思う。「新」しさはそこからきていたのかもしれない。
加藤さんを聴いていて、ふと、オノ・ヨーコさんを思いだし、平塚らいてうさんのことを想った。三人はどこか似ている。三人とも、時代よりちょっと早く、「当たり前」のことを当たり前に言い、行動した。三人は信じられないほどスマートだが、鋭利な刃物といった感じはない。その思考は身体全体で生み出されているようだ。極めて自然に母性を受け入れ、子をなした彼女たちは、その点ですでに、私の大好きなシモーヌ・ド・ボーヴォワールを凌駕しているのかもしれない。
出生率が低下の一途をたどる状況に、「……家庭や子育て、親子とかに対してすごく自由な感性が生まれてこなきゃいけないと思うの。おまえ、結婚しなくても子供つくってこいよというぐらいに。それが日本の社会の新しい課題だなと思うんですよ」と加藤登紀子はごく自然にコメントしている。
彼女たちは、あの類まれな知性にも関わらず、大らかで太陽のような「女性性」を揺らぐことなく堅持した。権力にNOと言い続けるときでさえ、彼女たちは非合法の眼差しと無縁であり、何かしらユーモアもあった。「女が男に負けるわけがないじゃない、だってオッパイがあるのですもの」とオノ・ヨーコは言ってのけた。
彼女たちは夫にとって妻であると同時に「グレイト・マザー」だったが、権勢をふるい、支配するもの全てを象徴する元型としての地母神ではない。自他に対する高度な客観性に富むゆえに、「かわいげのない強い女」といったステレオタイプなレッテルを貼る凡庸な者たちもあったが、彼女たちはいつだって遙かな高みにあり、精神の自由を手にしていたように思われる。
海清僧堂の臘八摂心を了え、「もう大丈夫だな」と南天棒に言われた平塚らいてうは、実に淡々と、「(森田草平との心中未遂事件のときから)私はすでに大丈夫だった」と述懐している。