占星術研究家の鏡リュウジさんは「占いは迷信」だと言う、「星の動きが人の人生を決めているわけがない。……星のサイクルで、この辺がこの人の転機だというのはだいたいわかる。でも何がどうくるかはわからないです」。
人生何が起こるかだれにもわからないなら、やはり自分の人生について、占い師さんのアドヴァイスに依存するのはあまり意味がないかもしれない。私など結構「感」の強いほうなので、人よりちょっと何か見えてしまったりすることもあるが、よーく考えれば、それがどうしたということだと思う。AとBの岐路に立ったとき、占いによってAを選んだとか、占い師の勧めで「……座」の人と付き合ったなどと挙げればきりがないほど、若い人も占いに左右されているようだが、占いでよい結果が出たと思ったら、依存度はますます高まるし、うまくゆかないと思ってしまったら恨みだけが残る。あげくの果てに、「生あるものはすべて死ぬ」という現象はいかんともしがたいなら、どう選んだところで、結局は五十歩百歩ではないかと思うのだ。
「占い師さんの言に従ったおかげで、300歳になる今も元気で働いている」というような人に出会えたら、「おっ、占いも結構いいかも」と思えるもしれないが、平均寿命までタラリと生きて、病を得て死んでいくというおそらくは人生最大の幸運は、占いなどとは無関係に、手に入る人には案外手に入るものではないか。
鏡さんは言う、「人は、完全なランダムには耐えられない。人生のすべての凹凸に、一つひとつ対処していたら身がもたないから。だから、ある種のパターンや物語を見いだして、人生を意味あるものとして生きようとする。そこに占いの本質があると思うんです」。
お釈迦さまは、「人は生まれて老いて病いを得て死ぬ」と言った。これは見事なパターンだし、これほど簡潔で嘘のない物語もない。究極の占いと言っていいかもしれない。私たちはみな多少の時間の長短はあっても、この物語を間違いなく展開できるという恵まれた命を生きている。それさえ確実なら、鏡さんの言うように、人生の凹凸を一つひとつ占ってもらっても、得るところは案外少ないかもしれないのだ。