線香の煙


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『白隠禅師年譜』12歳の時(元禄九年:1696)に次のようにある。
一日、香を菅神の画真の前に点して、再拝稽首して謂(おも)えり、「我が願い虚しからずんば、香煙端直にして天に沖(あが)る象(かたち)を示したまえ」と。黙祷すること良(やや)久し。眼を開けば即ち一道の香煙、直(まっすぐ)に天を衝(つ)くを視るも、已(すで)にして風来たって飄乱(みだ)る。尚お魔障の免る可からざることを恐る。
12歳の岩次郎(白隠の幼名)は、地獄の恐ろしさに怯えたため、菅神(天神さま)を信じ、日々拝んでいたが、ある日、その画像の前に線香を立てて、我が願い(地獄から救われる)を叶えていただけるならば、線香の煙を真っ直ぐにあげてみせて欲しいと願った。おもむろに眼を開くと、最初にまっすぐに上がったかのように見えたが、風が吹いてたちまち乱れ、まだ地獄の恐怖から逃れられないことに気付いたのである。
つまり、線香の煙は、幼少の白隠にして、その立ち上り具合で何かの御利益を得られるのではないかと思わせるほどのものであったのだ。
ところが、最近は、この煙の立ち上らない線香があるのだが、ご存じだろうか。概ねラベンダーの香りなどで、普通の線香には無いような香りだけがして、煙はまったく立ち上らない。
ひょっとしてご自宅のお仏壇に立てているお線香は、まさしくそれだと仰る方もおられるかもしれない。
できれば、そのお線香は使わないで、いい香りのする天然のお線香を使うようにしていただけないだろうか。


実は私事ながら、十年近く前から喉の調子が悪く、2度ほど手術をして今に至っている。手術前は、檀家さんのご法事でお仏壇の前でお勤めをしているときに、声がしゃがれてしまい、お経があげられなくなるほどの状態になることが時々あった。手術後、そこまでひどくは無くなったのだが、それでも、長時間にわたり声を使うと、かなり厳しいのだ。
特に、この煙の出ないお線香の時には、すぐにこの状態になってしまう。
もしや喉の手術をした私だけかと思い、知己の僧侶に聞いてみたところ、一様に同感を得た。
きっと化学的な処方がされた製品に違いないのだ。この眼に見えない喉に悪い煙を吸い込みつつ、1時間も声を出し続けているのは、檀家さんには申し訳ないが、苦痛以上の何物でもない。
我々僧侶は、こうやってお香の煙の前でお経をあげるので、化学処理されたものか、そうでなくて天然の香料が練り合わされただけのものか、すぐにわかってしまうのである。
『倶舎論』という古い仏書に、「諸少福者唯食惡香。其多福者好香爲食」とある。(死後に)福の少なかった者は悪香を食べ、福の多いものは好い香りを食べるとある。だからこそ、我々は先祖のために、よい香を焚き、よい匂いを食べていただくことが供養になるのではないだろうか。
それから、知人のお葬式などに参列するとき、焼香は二度するとか一度でいいとか迷われることがあろうが、それよりもっと大事なことがある。お焼香にくべるお香を、持参することである。なぜなら、上記のように、これも供養なのであるから。他人(葬儀社)の用意した抹香をくべて、どれだけ供養になろうものか。
そして、その後に配られるお手拭きで手を拭くなど言語道断。手を清めるなら、焼香をする前にするべきではないのか。
話が脱線したが、どうか、ご先祖のための供養と思って、そしてお参りに来る菩提寺の和尚の喉のことも少し思って、いいお香、いいお線香を使っていただければ幸いに思う。