-平常心是道- えしん先生の禅語教室 その13


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-平常心是道-
へいじょうしんこれどう
この語も前回と同じく、『馬祖録』(ばそろく)の「示衆」(じしゅう)という部分に出ています。馬祖道一禅師の説いた禅は昔から、特に「日常禅」として親しまれています。今日の臨済禅はその直系ですから、じっさいには臨済よりも三代前の馬祖が、すでに平常禅を説いていたのです。
その点で馬祖の説いた禅には、それまでに例のないオリジナリティがあります。彼の説き方があまりにも自由であったために、時の人から「雑貨舗」(何でも屋)と揶揄されたほどですが、馬祖の禅は、それほど人々にとって卑近なものであったのでしょう。
さて、今回採りあげた「平常心是道」こそは、そういう馬祖禅の本質を、まさに丸出しにしたような一句ですね。「平常の心」こそが「道」(どう)だというのですが、言うまでもなく「道」とは仏道のことであり、真実な生き方という意味です。
人間にとって「理想的な生き方」というものは、決して遠い山の彼方に求め得るものではなく、即今只今、われわれ一人ひとりの生きざまにある。もしそういう理想的な心を、日常生活の中ではたらかせるような人が在るならば、その人こそ「達道の人」(そういう理想的な道に到達した人)だと言うのです。
それでは馬祖は、どういう生き方を「平常心」と呼んでいるのでしょうか。まあ、「日常の心」と聞けば、誰でもすぐに分かったような気になりますが、ことはそんなに簡単ではないようです。簡単に実行できるなら、修行などしなくてもよいわけですから。「宝処近きにあり」と言いますが、幸せと同じで、身近かなものほど、気が付きにくいものですね。
『馬祖録』(原漢文)のその箇所は、次のような文脈です。


示衆に云く、道(どう)は修(しゅ)するを用いず、但(た)だ汚染すること莫(なか)れ。何をか汚染と為(な)す。但(も)し生死(しょうじ)の心有りて、造作(ぞうさ)し趣向(しゅこう)せば、皆な是れ汚染なり。若し直(じき)に其の道を会(え)せんと欲せば、平常心是れ道なり。何をか平常心と謂(い)う。造作無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡無く聖無し。経に云く、凡夫行に非ず、聖賢行に非ず、是れ菩薩行なりと。(以下略)
禅録は難しい内容が、しかも専門用語で書かれているので、なかなか難しいですね。それを易しくするのが、この教室の目的。本文をぐんと砕いてみましょうか。
「道」というものは、わざわざ習得する必要のないもの。ただ汚れに染まってはいけないというだけの話さ。何が汚染かというと、自分の迷い心から、何とかしようとか、こうした方がよかろうかとか思案すると、それがみな汚れになってしまうのだ。ありのままで直ちに「道」を手にしたいと思うなら、「平常心」のままでいればいいのだ。じゃ、何をいったい平常心と言うのかというと、あれこれ考えない、肯定も否定もしない、取捨選択しない、有るとか無いとかを二分しない、凡人と聖人を区別したりしないという、ただそれだけのことなのだ。『維摩経』不思議品にも、「凡夫のままで生きるのでもなく、聖者として特別の生き方をするのでもないのを、『菩薩行』と言う」と説いてあるじゃないか。