-即心即仏- えしん先生の禅語教室 その14


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-即心即仏-
そくしんそくぶつ
前回二月に、馬祖道一の「平常心是道」の話をしてから、この教室をしばらく中断して、別に『禅語に学ぶ、生き方死に方』(禅文化研究所刊)という、美しい写真をいっぱい入れた本を書いていました。
今月の中頃(2010.07)には、店頭に並ぶ筈ですから見てください。さて、元に戻って私たちの禅語教室を再開しましょう。
馬祖の有名な語に、もう一つ「即心即仏」というのがあります。この頃の人は余り書きませんが、昔の禅僧はこの語をよく揮毫しています。この前の「平常心是道」もそうですが、禅は「仏心宗」と言うだけあって、心とは何かがいつも問題になるのですね。禅宗は仏教の一派ですから、他宗とは違って仏様は二の次。先ずはしっかりと我が心をつかみ取らなければならないのです。
我が心と言っても、デカルトが「われ思う、故に我あり」と言ったような、自我の本質というような心ではありません。禅僧の求める心は「仏の心」です。実際「経典」にも仏の心は自分の中にあるのではなく、世界中に充満していると説いてあります。「へー心は自分のうちにあると思っていたのに、自分の外にあるなんて」と、皆さんはきっと驚かれるでしょうね。
しかしよく考えてみると、心などというものは自分の中のどこを探してみても、見当たりそうもありません。ところが心なんかないと言っても、美しい花を見たりすると「なんという美しさだろう」と感動しますし、恋しい人と別れると悲しくて、胸をかきむしられるような思いになります。好きなもの出会うと喜び、嫌いなものと出会うと嫌悪を感じるというように、喜怒哀楽、心とは千変万化ですね。これはいったいどういうことでしょうか。


実は、心というものが世界を見ているのではなくて、心は六根(感覚器官)を通って入ってくるもの、つまり目の前にあるものと縁を結んでは、その都度、鏡が物を写すように作られるものなのです。「心は万境に従って転じ、転処しかも実に能く幽なり」(『伝灯録』摩拏羅の章)と前に出ていましたね。このように、「心が物を逐うを邪となし、物が心に隨うを正となす」(『頓悟要門』下)というのが禅の見方です。
さて今回の禅語「即心即仏」ですが、最初の「即 に意味はなく、次の「即」を強調する置き字です。だからこの語の意味は、「心が仏である」ということになります。何のことはない、心とは自分のものではなく、世界に辺満している心であり、それが仏だというのです。馬祖はまた、「即心是仏」とも言っていますが、意味は同じです。
一つだけ、面白い箇所を引用しておきましょう。
ある僧が馬祖に向かって、「和尚さんはどうしていつも即心即仏と説かれるのですか」と問うと馬祖が、「啼いている子供を泣き止ませるためだ」と言われた。「泣き止んだときはどうですか」と問い直すと、馬祖は「非心非仏」と答えられたのです。つまり「心は仏ではない」ということですね。その後に問答が続きますが、ややこしくなるので省略。
『馬祖録』には、即心即仏と非心非仏という二つの相反する語が4回ずつ出てきますから、二つの語は同じ重みを持っていることになります。これだから禅は困りますね。「心が仏である」と説くのは子供騙し、泣き止んで冷静になったら、「心は仏なんていうものでもない」と言われたのです。
心が仏だということは大切なことですが、そう言うと凡夫はまたもや、心ほど有り難いものはないと、不自由なレッテルを張ってしまうからです。心というものはそんな固着した不自由なものではなくて、「自由闊達なハタラキそのもの」だからであります。