お釈迦様の時代の話から、体験談に至るまで、様々な話を例に出しつつ山田無文老師が語って下さいます。般若心経の理解を深める事にとどまらず、幅広く仏教について学べる上に、歴史上の名僧のエピソード等も興味深く読んでいただける本です。
山田無文著
B6判 230頁 1986.8 発行
ISBN978-4-88182-188-6 C0015
【もくじ】
般若心経 原文
般若心経 現代意訳
はじめに
第一講 第二講 第三講 第四講 第五講 第六講 第七講 第八講
【本文より抜粋】
「深般若波羅蜜多時」―波羅蜜多は先に出てきたとおりでありますが、ここには深般若波羅蜜多とあります。白隠禅師は『毒語心経』で「咄、好肉をえって瘡を生ず。怪しい哉、所謂般若とは其れ何する物ぞや。既に是れ浅深あり、将た其れ河水に似たるものか」と揶揄しておられます。般若の根本智は何もない空、男もなければ女もない、浄でもなければ汚でもないのだから、河の水ではあるまいし、浅いの深いのということがあるものか、と。そして、さらに頌を作って「空を求めて色を破る、之れを浅と言い、色を全うして空を見る、此れを深と曰う」と解決を与えておられます。色、つまり物質を分析して空の理を追求していくのは浅般若である。たとえば自我というものは実はないのであるが、自我を構成している物質はあると見ること、つまり、自我という主観は空であるが、客観の世界は実在するのだ、と見ていくのが浅般若であります。しかし、そのように頭で分析せずに、物があるがままに、そのままいっさいが空だと直感できるならば、それを深般若というのであると。われわれ凡夫は、毎日、憎いの可愛いの、損だ得だという分別の世界に日暮らしをしておるのですが、観自在菩薩は、そういう現実の差別の世界を、あるがままに見ながら、しかも分別のない心境で遊びたまうているのであります。